「補給戦 — 何が勝敗を決定するのか」という本が好きなので紹介したい話
私は本が好きなので、よく「今まで読んだ本の中で好きな本はなんですか?」という話をする。文脈にもよる(例えば小説だと吉村昭「漂流」が好きだ)が、自分が挙げる頻度が最も高いのが標題の「補給戦 — 何が勝敗を決定するのか(原題: “Supplying War: Logistics From Wallenstein To Patton”)」という本なので、自分自身の思考の整理を兼ねて紹介したい。
「補給戦」の出版は1977年で和訳初出は1980年なので40年以上前の本だが、今読んでも面白いと思う。
本の概要
この本は16 ~ 17世紀の軍事革命から第二次世界大戦に至る近代ヨーロッパの主要な機動戦を題材とし、物資補給線の確立および維持に関係する活動が組織・技術または他の諸要因によってどのように変わっていったかを定量的に考察しながら戦争の推移に兵站 <Logistics> が与えた影響を明らかにしようとしている。
人間の戦争には様々な形態があるが、主として兵士の移動能力の高さや集団の意思決定の早さに主眼を置いた戦争形態は「機動戦」と呼ばれる。部隊がそれぞれの目標に向かって迅速に移動していく中で、それらが必要とする物資を「いかに必要な数を必要なタイミングで必要な場所へ届けるか」という課題は勝敗に直結する重要な要素となる。
原題に “From Wallenstein To Patton” とある通り、この本は三十年戦争(1618 ~ 1648)で神聖ローマ帝国の司令官としてスウェーデン王グスタフ=アドルフと対決したヴァレンシュタインから始まり、ナポレオン戦争や第一次世界大戦などの主要な戦争を経て、第二次世界大戦のノルマンディー戦役でアメリカ第三軍の司令官として2週間で1,000 km 近くを進み連合国軍の勝利に貢献したジョージ・パットンで終わる。
この300 ~ 400年の期間にわたって技術的には通信や鉄道・自動車の発達など多くの進歩があり、それに伴って戦争の形も変化した。しかし、兵士が1日 3,000 kcal の食料を取らなければ動き続けることはできず弾薬や武器・兵器などの物資がなければ戦えないということは変わらなかった。
この本で特筆すべきところは、様々な記録や推測から行軍経路や確保可能だった物資の量、馬車・自動車の台数、鉄道・港湾の状況などを整理し、作戦が現実的に可能だったか、不可能だとすればそれは何故だったのかを定量的に分析したことにある。戦史研究における兵站の重要性を明らかにした草分け的存在とされている。
特に好きな章
私が特に好きなのが北アフリカ戦線(1940 ~ 1943)を取り上げた第六章なので、できるだけこの本の魅力が伝わるように内容を紹介したい。
ロンメルは名将だったか?
北アフリカ戦線でドイツ軍を指揮したエルヴィン・ロンメルは圧倒的に不利な状況の中でイギリス軍に対して数々の戦闘で勝利し、「砂漠の狐」という異名で世界的に名将として知られていた。
ロンメルは度重なる勝利によって枢軸国の支配地域を拡大したが、最終的には英米連合軍に敗れアフリカから撤退した。彼自身はその敗因を本国からの補給不足と主張したが、状況を詳細に分析すると前線への補給が不足した主要な原因は本国側ではなくむしろアフリカ側にあった可能性が高い(つまり敗北の責任はロンメルにもある)と考えられる。
発端
1940年当時ドイツと同盟関係にあったイタリア政府は植民地の拡大を企図し、9月にリビアから当時イギリス領だったエジプトへ侵攻した。しかしイギリス軍に敗北し、逆にリビア東部(トブルクやベンガジ等のキレナイカ地方)を失った。
ドイツはイタリアを助けるため、1941年の1月に北アフリカへの派兵を決定した。
地理的状況
ドイツの派兵当初、北アフリカ戦線はトリポリから東へ 500km の地点で膠着状態にあった。
ヒトラーとムッソリーニの間では「トリポリから補給可能な限られた地域を守る」という合意がされていたが、ロンメルはそれを無視した。
ベンガジはトリポリを超える荷揚能力があったが、エジプトのイギリス空軍の攻撃に晒されていた。トブルクは前線に近かったが、大型船が停泊できるような港ではなかった。
ロンメルの指揮するドイツ軍は勝利を重ねベンガジおよびトブルクを奪回したが、アレクサンドリアの西方100kmに位置するエル・アラメインでの戦いで米英連合軍に敗れ、最終的にアフリカ全土から撤退した。
砂漠機動戦の困難
まず第一に砂漠には民家も畑も工場もないため、現地徴発が不可能だった。イギリス軍は背後の基地から支援を受けられたが、ドイツ軍はイタリアからの海上輸送に依存していた。
次に、移動距離が非常に長い。枢軸国が利用可能な最大の港トリポリからイギリス軍の本拠地アレクサンドリアまでは 2,000km 近くの距離があり、これは当時の独ソ国境ブレスト=リトフスクからモスクワまでの距離の2倍近かった。
また、高温のため食糧が傷みやすく、オートバイや戦車、トラックなどの車両は熱で壊れやすかった。当時ドイツ軍の戦車のエンジンは2,500km近くを走ることができたが、アフリカでは500~1,400km程度しか保たなかった。車両の 35% は常に故障している状態だった。また、同盟国のイタリアとは戦車の規格が異なり保守が困難だった。
港湾能力の不足と陸上での輸送距離
トリポリでは平均して月間 45,000t の物資を荷揚げすることができた。
ドイツ軍は水や食糧を含め一箇師団あたり1日 350t の物資を必要としていた(輸送に必要な自動車を除く)。ロンメルが行動を開始する頃にはイタリアを含めた枢軸国軍は七箇師団に膨れ上がり、航空部隊や海軍を含めると1ヶ月に必要な物資は 70,000t を超え、トリポリの荷揚げ能力を上回った。
大型船が停泊できるベンガジはトリポリを超える港湾能力を持っていた。ドイツ軍はベンガジの奪回後はトリポリからベンガジへの沿岸輸送で補給線を維持しようとしたが、制空権を持つイギリス軍に空襲を受け、荷揚げは1日あたり 600t が精一杯で補給の不足を補うことはできなかった。
キレナイカ地方の制圧後はベンガジで荷揚げできる物資の量は増えたものの、アレクサンドリアまではかなりの距離があり(枢軸国軍の最終到達地点エル・アラメインまでは 1,000km 近く)輸送には大量のトラックと燃料が必要だった。
当時のドイツ軍の推測によれば、北アフリカに荷揚げされた物資のうち 10% が残りの 90% を運ぶために使われていた。(食糧や水、武器弾薬を除き)物資の 1/3 を燃料とすると、全燃料の約3割は輸送のためだけに使われていた計算になる。
マルタ島
ヨーロッパ側の補給拠点ナポリとアフリカ側の補給拠点トリポリの間にはマルタ島があり、当時イギリス海軍の基地が置かれていた。
北アフリカ戦線では当初マルタからの攻撃は少なく、補給がピークに達した1941年5月でさえ荷積みから荷揚げまでに攻撃による損失は全体の9%に過ぎず、アフリカには七箇師団が必要とする物資が届けられた。トリポリの荷揚能力が想定を上回ることはあったものの、それを前線まで運ぶ車両や燃料は常に不足していた。
しかし1942年に入るとシチリアのドイツ空軍の多くがバルカン半島に移動したこともあってマルタのイギリス軍の活動が活発化し、1942年9月にはイタリアからアフリカに届く物資の 25% が途中で攻撃によって失われた。
著者クレフェルトのロンメル評
- 戦術的天才だが、北アフリカ戦線では補給を軽視した
- 港湾能力と砂漠での移動距離の長さ、制空権の状況から見てアレクサンドリアを攻略し中東に進撃するのは現実的に不可能だった
- ドイツ本国はソ連侵攻を重視しており、北アフリカでは同盟国イタリアのために限られた地域を守ることが当初の目標だった
- マルタを制圧し地中海西部の制海権を確保することがロンメルの責務だった(実際、ヒトラーとイタリア政府は当初それを望んでいた)
- 敗戦の責任は本国の指示を無視したロンメルにある
この本が好きな理由
私は軍事・戦史オタクではない。それでもこの本には魅力を感じるのは何故なのかを考えてみた。
人間の知性には限界があり、現実に起きたことを全て認識することはできない。ある同一の事実に対してさえも、自分からは見えていない部分を想像で補うことで自分の認識との整合性を取ろうとしてしまう。これは人間の一般的な傾向であって、避けることは非常に難しい。
この本では既存の戦史研究を取り上げながら、一つ一つ事実(経路ごとの兵士の数や移動日数、自動車や荷馬車の数…)を積み重ねて著者の仮説を補強していくことで補給が戦争に与えた影響を明らかにしようと試みる。読者にはそれが大きな成果に見えるが、著者は最終的には補給の重要性を主張しつつもその限界を悟って本は終わる。
この本の内容だけでなく、著者の姿勢や考え方が垣間見えるのが自分が魅力を感じる理由かなと思った。