知覧にて
週末に鹿児島へ行く用事があり、知覧の特攻平和会館に寄ってきた。
知覧は太平洋戦争時代に特別攻撃隊の基地があったことで有名な町で、現在は旧飛行場一帯が公園となっている。
公園の外れには知覧特攻平和会館がある。この場所では、特攻隊員の遺書や遺品を見ることができる他、特攻隊員に焦点を当てた様々な企画展が行われている。
特攻は爆弾を取り付けた飛行機で敵艦船に体当たりする作戦で、操縦者が生還する見込みはほぼ無かった。隊員達も自分が生きて帰れないことを知っているので、出撃前には両親や家族、世話になった人に宛てた遺書を認めていた。
特攻隊員の多くは20過ぎの若者(最年少は17歳)だが、どの手紙も綺麗な字と文章で綴られており、当時の陸軍軍人に優秀な若者が多かったことを伺わせる。
数多くの遺書の中で、私が特に興味をひかれたのは上原良司の遺書だ。
上原は長野県で医者の家に生まれ、慶應義塾大学経済学部を学徒出陣で繰上卒業した後に陸軍へ入り、飛行学校を卒業して知覧に来た。その後、沖縄戦に特攻隊として出撃し、1945年5月11日に嘉手納で戦死している(享年22)。
家族への感謝、戦死への覚悟、子供への想いなど様々な遺書がある中で、上原の遺書だけは国家・軍への批判的な言葉を含んでいる。
上原はその遺書の中で、自分が自由主義の信奉者であり、日本やドイツのような全体主義国家がいずれ敗れることは明白な事実で、この戦争がそれを証明している、と述べている。全体主義を鋭く批判しながらも自分はその全体主義に従って死ぬ、というのは無念であったろうと思う。
航空機・パイロットを失うことを前提とした非合理的な作戦の継続的な実施が正当化された陰には、帝国陸海軍の組織的・戦略的な失敗があった。
世界の戦史を紐解いてみると、生存を顧みず困難な作戦を決死の覚悟で遂行するという例は多々あるが、特攻のように数カ月にわたって何千人もの死者を出した作戦を私は他に知らない。
組織的・戦略的な失敗によって非合理的な作戦が正当化される、このような悲劇を繰り返さないためにも、歴史をもっと知る必要がある。
そんなことを考えた週末だった。